【アダルトチルドレンの回復へ向けて ②】             「内なる親」との対決を考える    

いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれる生きづらさからどうやって抜け出し、自分自身の生きた方を手に入れることができるのか、いくつかの考えをまとめてみました。この母ー娘の問題については色々な取り組みや著作で触れられています。それらを参考にしつつ、私は私なりに考えてみたいと思います。

「親ー子の関係」について

 親と子の関係はまず個人が生きていく上で身体的なベースとなるものです。赤ちゃんは生命を維持するために親・養育者との関係だけが頼りになります。それだけに「親と子の関係」は生きていくための最初の基盤・背景として存在するものです。そして長じるにつれ生命の維持だけでなく、自分と言うものをどうとらえるか、そして他人や外的世界をどうとらえるか、という心理・発達的な側面でも大きな影響を与えています。それだけにその関係が上手く行っている時は表だった問題として現れませんが、その関係の歪みやストレスが溜まってくると様々な軋轢が生じてきます。

 

 幼い頃はそれは直接的に個人としての親と子の関係になりますが、次第に現実の親と言うよりも子どもの中に内在化された「内なる親」との関係になってくることが多いのです。そしてその場に親がいなくても、あるいは直接その場での関わりがないのに、「内なる親」が子どもの行動や価値観や対人関係に影響を与えるようになります。

 

もちろんそれは必ずしもネガティヴな影響だけではなく、生きていくうえで守られているという安心感につながる「基本的信頼感・基本的安心感」と呼ばれるようなポジティヴな心理的基盤を形作ってもくれます。ですから親の生き方を取り込むことが問題なのではなく、「内なる親」が子どもの生き方にネガティヴな影響を及ぼすことが問題となるわけです。

「内なる親」とは

では「内なる親」と子どもとの関係はどういうものなのでしょうか。「内なる親」という場合、「親」と言っても個人的な親ではなく、子どもが取り込んだ「親の生き方や価値観やイメージ」と言っても良いかもしれません。親のイメージには「父性」と「母性」の二つのイメージがあります。一般的に行って現実の父親は「父性」的で、現実の母親は「母性」的であることが多いのですが、「父性」「母性」と言うのは、実は父・母を問わず両方備わっているもので、場合によっては「母性的な父親」「父性的な母親」という場合もあります。

 

その「父性」「母性」にはポジティヴな面とネガティヴな面があります。例えば「産み育てる母性」「正しい方向へ導く父性」はポジティヴな面ですが、言うことを聞かないと「飲み込む母性」「切り捨てる父性」というネガティヴな面に切り替わるという面もあるのです。一般的に言って「飲み込み(切り捨てる)」というネガティヴな面が子どもの心の中に占める割合が多くなると、子どもの中の親の存在は「脅威を与え」「自由を奪い」「処罰する」存在となります。つまり子供の自らの「内なる親」によって自らを不安や自信喪失、自己否定、自己処罰へと追い込む事になるのです。そうなると子どもは、自己実現だけでなく対人関係においても無意識のうちに自己抑制がかかったり、逆に感情が暴走がしたりして色々な面での行きづらさに苦しむことになります。

 

 そういう状況に立ち向かうためには、まず子供自身が自分の中の「内なる親」に立ち向かう強さを育てることが必要になります。その第一歩は思春期の子どもたちが実際の親に対して取るような「怒りを伴う自己主張」を、まず自らの「内的な親」に対して行う力をつけるということです。

 

そしてそのようなステップとして、スーザン・フォワードは「毒になる親」という著作の中で「親に対する手紙」を書くことを勧めました。これは直接実際の親に対して怒りをぶつけるのではなく、まず自分の怒りと自らの思いを言葉にして「内的な親への手紙」という形で表現するという方法です。

「内なる親」と罪悪感

思春期の反抗でも見られるように「怒り」と言うのは自分を固める防衛となります。自分を責める代わりに、相手のせいにして怒るというのも自分を守るための一つの方法でしょう。それは決して悪い面ばかりではありません。むしろ怒りが自分だけへ向かうと自責感とうつ状態になってしまいます。しかし同時に怒りにはもう一つ副作用があります。それが「罪悪感」です。

 

思わず怒りの感情を出してしまったことに罪悪感を感じてしまうことは誰でも経験があると思います。「内的なネガティブな親」はそこに付け込みます。「子どもが親に怒りをぶつけるとはどういうことだ!?」「これまで世話になりながらどうしてそんなことができるのだ?」というような内なる親の声が聞こえてきたように思ったことはありませんか?実はそれはあなたが自分の中に取り込んだ「内なるネガティヴな親」の仕業なのです。その罪悪感に負けてしまうと、子どもはいつまでたっても親にかなわない弱者の立場から抜け出せません。

内なる母との対決~英雄誕生:自立への一歩~

神戸のカウンセリング・オフィス岸井 アダルトチルドレン ユング
<写真はAmazonより ユング>

先ほど書いたようにS・フォワードは怒りも含め、自分の正直な感情を手紙と言う形で「内なる親」にぶつけることを勧めています。もちろんその延長上に、「現実の親に対する対決」と言うのも見えてはいるのですが、それを実際にするかどうかは別にして、まずは自分の内なるネガティヴな親に対して内なる闘いをしなければなりません。そういう「内なる親(ここからは特に『母親』とします。ただしこの母親は個人的な母親その人ではなく、取り込まれたイメージとしての母親です)との対決」を成長の通過儀礼の一つとして描き出したのが、ユングです。

 

 ユングによると子供が自立をする時が来ると、自らの内なる母親に対して「内なる戦い」をせざるを得なくなります。これは発達の通過儀礼として欠かすことができないプロセスであり、「母に依存する子供」「母にコントロールされる子供」から一人前の大人になるために、自分を支配しコントロールする母親と対決し、いわゆる「母殺し」をする闘いなのです。「母殺し」と言っても、もちろん直接的に現実の母親を殺すという意味ではありません。自分の中にいる「ネガティヴな母親」を倒し、母ー子の関係から抜けだし、一人前の大人としての関係へ踏み出すための通過儀礼としての「母殺し」なのです。

 

それが「自立」への第一歩であり、ポジティヴな内なる母親への依存・甘えを断ち切り、ネガティヴな内なる母親が植え付けたコントロールや罪悪感を湧き起こさせる罠からの脱却の過程なのです。当然「内なる親」はあなたを責め、あなたの罪悪感を刺激し、あなたをまるめこようとしてくるでしょうが、それに負けない強さこそ一人前の個人として生きるために必要な強さであるのです。

 

ユングはそのプロセスを「英雄誕生」と言いました。確かに昔話やおとぎ話で英雄は悪の怪物や魔女を倒して新たな時代を切り開きます。そして牢に閉じ込められた姫を救い出し、王子様から一人前の新しい王となり自分の国を作り上げるのです。

一人の個人として対等な関係

今まで述べてきたことは決して思春期の子供のだけのことではありません。いわゆるアダルトチルドレンと言われ、母親の支配や過干渉、脅しや策略に負けて、自らのうちに「ネガティヴな母親」をとりこんでしまったあなたにはやはり必要な「母殺し」の通過儀礼でしょう。その内的なプロセスを経て、子どもではなく、一人の大人の女性としてのあなたが誕生するのです。あなた自身が英雄となり、ネガティヴな母親の牢屋に閉じ込められたあなた自身を開放し、自分の世界を取り戻すのです。

 

「内なる母親」との対決はどうしても必要です。心の中で自ら取り込んだ「内なる母親」に対し対決し一人の自立した個人として、「内なる母親」に対等の関係を築き上げるのです。それにはまず自分の感情を開放する必要があります。対決するためのエネルギーはあなたの感情の中にあります。子供時代からどういう体験をしてきて、その時に自分はどういう感情を感じ、抑え込んできたか、思い出す必要があります。それは大変つらい作業です。何しろ昔、表に出せなかった感情を掘り起こして改めて感じてそれを再体験するということなのですから。

 

しかしそのプロセスを経ることは避けられません。以前経験することを避けた感情と向き合う作業を再び避けてしまっては前に進めません。もし一人でその感情に直面する勇気がない場合はカウンセラーや信頼できる人と一緒に取り組んでください。そしてその後、それを言葉にします。言葉にすることで、大人になったあなたが子供時代の本当の気持ちを相手:「内なる母親」にきちんと伝えることができるからです。それがS・フォワードの言う「親への手紙」なのです。こうすることによってあなたはこれまで十分に生きることができなかった「子供時代のあなた」を再び生き直し、「大人のあなた」によって本当の自分の気持ちを再確認することができるのです。

 

そして次にすべきことは今の「大人のあなた」が「子供時代のあなた」を慰め勇気づけることです。「親ー子関係」の牢屋の中に閉じ込められている「子供時代のあなた」を「大人のあなた」が解放してあげるのです。それが先に触れた「英雄」の仕事です。その結果一人の個人としとしての「大人のあなた」が一人の個人としての「大人の親」へ対等の関係を作り上げることができるのです。

現実の母との関係 ~「対決」?「許し」?「大人」としての付き合い~

こうして「内なる親」との対決のプロセスを無事に通過することができれば、次に「現実の母親」との関係を見直す準備が整います。現実の母親はあなたがこれまで感じていたほど圧倒的な存在ではなく、欠点だらけで理不尽な関わりを押し付けてくる「一人の個人」なのです。確かに生物学的には「親と子」の関係は残りますが、同じ社会生活を営む一人の個人としての母親は迷惑で負担を押し付ける一人の個人なのです。

 

もちろん場合によっては、母親自身も自らの子供時代に縛られて母親自身の「内なる母親」に操られているかわいそうな個人なのかもしれません。しかしその問題は大人であれば「自分の問題は自分で背負う」べきなのです。長く苦しんでいる母親に同情こそすれ、あなたには直接的な関係はありません。ましてやあなたが彼女のカウンセラー役になる必要はないのです。必要があれば母親が自分自身でカウンセラーを探せば良いことなのです。

 

ここまで割り切った考え方ができるかどうか、それはあなたの「内なる母親」との関係によって異なるでしょう。まだ罪悪感がどこかに漂うならば、「内なる母親」の影響が残っているとも言えます。しかし現実の母親に対して、現実的に「対決」したり、あるいは逆に「許し」を与えたり、また完全に「縁を切る」ことが必ず必要かどうかは、じっくりと考えなければいけない問題です。「内なる母親」に対して対決することは必要ですが、現実の母親との関係は「一人の個人と個人の関係」であり「大人としての付き合い」をすることが次の課題であるとも言えるからです。

 

そのことについては、次の段落でまとめてみますが、それを考える参考として「不幸になる親」(著 ダン・ニューハース)を取り上げたいと思います。

「不幸にする親」著:ダン・ニューハースから

神戸のカウンセリング・オフィス岸井 不幸にする親 アダルトチルドレン
<写真はAmazonより>

この本は、翻訳者のあとがきにもある通りS・フォワードの著書「毒になる親」の“続編”にあるとも言える本であり、“お互いを補い合う関係”にある本です。特にパート3の「問題を解決しよう」という部分の内容は、不健康な親のコントロールにさらされて育った子供時代からの回復のプロセスを「不健康な心の結びつきを断ち切る」「親との関係の持ち方を変える」「人生をリセットする」の3つのパートによって具体的に描かれています。

特のその中で「自分を苦しめた親とは“対決”すべきか」という項では対決することの効果とリスクについて詳しく説明されています。そこで取り上げられた実際の親との対決した場合の効果とリスクは以下の通りです。

<効果>

  1. 語ることができないまま、ずっと背負っていた感情のためにエネルギーが出なかった状態から解放され、恐れる気持ちを乗り越えることができる。
  2. その後の親との関係の持ち方を決めることができる。
  3. 親の態度いかんでは、ポジティヴな変化も期待できる。

<リスク>

  1. 心理的なストレスが増す。
  2. 親との関係がさらに敵対的になる可能性がある。
  3. 親からの復讐を受ける可能性がある。
  4. 親の反応によっては強い落胆や悲嘆を味わう。

以上のような対決の効果とリスクを自分自身の場合に具体的に当てはめて十分考えてください。D・ニューハースさんは<対決はしてもしなくてもよい>という段落で、「対決をするかしないかは、それが自分にとって一番ためになる方法かどうかをよく考えて、本人が決めること」だとしています。また「“対決”は非常に効果のある方法ではありますが、周囲にサポートしてくれる人たちが必要であり、そういう人がいない場合は困難」なこともあると述べています。さらに「“対決”は、自分を癒すための手段であり、相手をやっつけるために戦うことが目的ではありません。したがって、心のなかに強い怒りがあるうちは行うべきではありません」とも指摘しています。

 

そのぐらい効果とリスクが伴う行為であるため、十分に検討して周囲のサポートを得て自分がさらに傷つくことへの守りを固めたうえで実行する必要があるのです、もちろん実際に対決しなくても、先ほどまでの述べてきた「内なる親への対決」をやり遂げることでもかなりの程度自分自身を取り戻す効果はあるということは言えると思います。

 

やはり結論としては、ダン・ニューハートの指摘するように「“対決”はしてもしなくても良い」のであり「“対決”するかしないかは、それが自分にとって一番ためになる方法かどうかを考えて、本人が決めること」なのです。そして大人のあなたは当然自分自身を癒すためにどうすればよいかを自分で判断できる能力と権利を持っていることを忘れないでください。

私は親のようにはならない?  ~影の問題~

アダルトチルドレン 影の問題

「私は親のようにならない」このフレーズはアダルトチルドレンの問題を指摘したクラウディア・ブラックの有名な著作のタイトルであるとともに、たびたびアダルトチルドレンと言う生き方に苦しんでいる方々からお聞きする言葉です。

 

しかしわざわざ「親のようにならない」と言葉にせざるを得ないのはなぜでしょうか?それは屈折した見方かもしれませんが、「内なる親」の価値観や言動に対する意識的な反発とは別に、思わず自分がとってもしまう考え方や言動の中に「もしかしたら自分も子どもに対して同じようなことをしてしまうのではないか」という恐れがあるからではないでしょうか。はっと気が付いたら自分も親と同じ態度を取っていた、という驚きと恐れの影が見え隠れするからかもしれません。

 

このように「意識的に取る態度や価値観、言動」の背後に「意識的に否定され排除された態度や価値観、言動」が、いわゆる「影」として無意識的に存在していることを指摘したのが、先にも上げたユングです。

この影の問題は人間だれでも共通する課題であり、必ずしもアダルトチルドレンの特有な問題ではありません。誰でも自分の考え方にしたがって「こう行動するのが正しい」「ああいうことはやってはいけない」と意識的な方向付けすることで自分らしさを形作ります。ですから意識的に受け入れられる行動以外は「そういう行動をとるのは好ましくないのだ」と否定して、いわば抑え込んで意識の背景、つまり無意識に追いやるものです。それがうまく機能している時はとても自己コントロールの利いた筋道の通った生き方をされているのですが、一方でそういう意識的な部分があまりに肥大しすぎると、その偏ったバランスを補償しようと無意識的な「影」が動き始めるのです。そうなると意識的でなく無意識的に、つまり「はっと気が付くと思わず」今までと反対の行動をとってしまうことになるのです。

 

母親の理不尽で偏った生き方の犠牲になり、「私はあの母親のようにならない」と心に固く誓うということは母親のような理不尽な行動を「影」に追いやります。つまり母親の言動を否定して正反対の態度を意識的に取ろうとするのですが、あまりにそれが肥大化過ぎると「影」に追いやったはずの母親と同じような行動に出ている自分に「はっと気が付いてしまう」ということが起きることがあるのです。

 

詳しいことはまた別の機会に文章にまとめようと思っていますが、母親の言動や生き方を否定して「私は母親のようにならない」と意識しぎると「影」が動くことになりかねない、ということを知っておいてよいかと思います。だからと言って母親と同じ生き方を認めるべきだと言っている訳ではありませんが、余りにかたくなで母親の反転したような生き方を目指し過ぎると、結局母親と同じような生き方をしてしまうことも起こりうるのです。

あなたはあなた。私は私。 ~ゲシュタルトの祈り~

さて少し話が広がって「影」の問題まで取り上げてしまいましたが、結局のところ「母親が重い」と苦しむことも「母親と同じような生き方をしない」とかたくなになりすぎることも、同じように「母親ー自分」の関係に絡み取られている生き方なのです。

 

では「親―子関係」に絡み取られずに、より自分らしい生き方を取り戻せばいいかと考えた時、ヒントになるのが、ゲシュタルト心理学の創始者F・パールズが唱えた「ゲシュタルトの祈り」という詩です。最後にこの言葉を紹介して終わりたいと思います。

 


神戸のカウンセリング・オフィス岸井 ゲシュタルトの祈り アダルトチルドレン
<F・パールズ>

《ゲシュタルトの祈り》

 

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

 

私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

 

そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

  

私は私。あなたはあなた。

 

でも縁あって、私たちが出会えたなら、それは素晴らしいことだ。

 

 

しかし出会えないとしても、それもしかたがないこと。


現実の母親とどう付き合えばよいか。それについてはその人の数だけ答えがあるといってもよいでしょう。母ー子関係のみならず、生きるということに、正解は一つではありません。

 

ただもし言えるとしたら、一人の大人、一人の個人として「わたしはわたし。あなたはあなた。」

そして「私は私、母は母。二人が出会えれば素晴らしいこと。しかし出会えなくても、あるいは別の道を歩くことになっても、それはそれでしかたがないこと。なぜなら母と娘は、今やもうそれぞれは一人の大人なのだから」。

 

素敵な出会いができればそれに越したことはありませんが、かりにすれ違ったままであっても、それはそれで仕方がないことなのかもしれません。何よりも、親も含め、人がどう言おうとも、自分らしい納得できる生き方こそ、本当の自分の人生だと思うのですが、いかがでしょうか。

 

*なお次回は「私は母と同じようにはならない」という「影」の問題について考えてみたいと思います。