「物語」について考える <2:科学的思考と魔術的思考>

人間は目の前の状況に不安や疑問を感じた時に、それを解消しようと思わずにはいられないようです。

 

そしてその解消の方法には大きく分けて、①合理的・科学的思考 と ②魔術的・物語的思考の二つがあります。どちらも物と物や出来事と出来事との「関係性」を説明する思考ですが、①が因果関係に基づく思考であり一方、②は因果関係に縛られない自由で時空を超えた共時的な考え方だと言えます。共時的とは「意味ある偶然」という意味で、「ある現象が何故だかわからないが、その時、起こるべくして起きる」という思考です。

 

例えば、町で遊んでいたカバオ君が突然現れたバイキンマンに襲われたとします。そこでカバオ君は特に誰かに助けを求めたわけでもないのに、なぜかそこには町の治安を守るためにパトロールしていたアンパンマンが現れます。何故でしょう?

現実の私たちの日常では、誰かにいじめられたり襲われた時に、警察官や正義のヒーローがたまたま通りかかってくれるということは、まず、ありません。警察官を呼びたければ119に電話するか、誰か周囲の人が通報してくれなければ正義のヒーローは姿を見せないのが普通です。

 

ところが、アンパンマンの物語では、「なぜかわからないけれど」そこにたまたまパトロール中のアンパンマンが通りかかる。

「何言っているの、そうでなければお話が続かないでしょ?」と言われるのはもっともで、物語の中では「なぜかわからないけれど、たまたま」次の展開が待っています。いちいち「なぜここにアンパンマンが現れたんだ?誰かが連絡したのか?だとしたら、どうやって空を飛んでいるアンパンマンに連絡が付くんだ、スマホを持っているのか? 」としゃくし定規に、合理的で科学的な説明を求めていたら、それこそお話になりません。

 

さらにアンパンマンがバイキンマンにやられて、顔が汚れて力が出なくなって落下していった時、「なぜだかわからないけれど」タイミングよく、バタコさんとジャムおじさんが現れて新しい顔をアンパンマンに投げつけてくれます。ここまで行くと、「そんなうまいこと、実際にはないよな」と思いますが、しかしそうでなければ物語が展開し、進んで行かないのです。

 

こういう「なぜだかわからないけれど、展開していく」背景にあるのが、②の「魔術的・物語的思考」と言われるものでしょう。

 

子供たちは言うまでもなく ②の魔術的・物語的思考で生きています。ドラえもんやポケモンも大人から見ればたわいもないお話かもしれませんが、彼らにとってはそこはまさしく今自分が生きている世界なのです。「なぜだかわからないけれど、世の中はきっと困った時には誰かが助けてくれる」という理屈ではない予定調和の物語の世界に生きている「のび太」や「サトシ」に、自分の身を重ねて生きているのです。

 

一方合理的で科学的な思考はどういう時に使われるかと言うと、例えば現実的で理屈に基づいた論文・実験などの科学的などには欠かせません。「何故だかわからないけれどこうなっている」事態を「なぜそうなるのか」合理的に説明しようというところに科学が進歩する余地があるのでしょう。ですから合理的・科学的思考は現実を認識できる大人の思考であるとも言えます。そういう意味では「現実はこどものお話のように甘くはない」のです。

 

それでは私たちが生きている「この人生」は、合理的・科学的思考で組み立てられているのか、それとも魔術的・物語的思考の海に漂っているものなのか、どちらなのでしょう?

 

あなたはどう思いますか?