4つの「なぜ?」

よく人は「なぜ?」という言葉を使います。

例えば私が聞かれた言葉としては「なぜ、うちの子は学校にいけないのでしょうか?」というような問いかけをされたりします。

また自分でも「なぜ、この方はこんな考え方をされるのだろう?」というような自問自答をすることもあります。

 

しかしよくよく考えてみれば、この「なぜ?」にはいくつか違う意味があるような気がしています。

例えば、

1)「方法」を問う「なぜ?」

  「うちの子は学校に行こうとしないけれど、どうすれば登校するようになるのだろう?」という意味の「なぜ?」

   こういう問いかけには「どうすればうちの子が学校に行くようになるのか、教えてほしい」という「方法」をお尋ねになられる言  

   葉が続きます。

 

それから

2)「原因や理由」を問う「なぜ?」

   「うちの子が登校しなくなった「原因や理由」は何なんだろう?という意味での「なぜ?」

   これは原因がわかってそれを解決すれば登校するようになる、という意味で1)と繋がっている気がします。

 

 

3)「目的」を問う「なぜ?」

  もう一つあるのは「なぜ?」が理由や方法を指しているのではなく「何のために?」という「目的」を尋ねている場合。

  例えばうちの子はなぜ、学校に行かないという方法を選んだのだろう?何のためにこんな行動を取っているのだろう?」という「な

  ぜ?」。

  これは「登校しない」という行動を、それによって何かを訴えているのではないか?、行動そのものより、その「意味」をしりたい  

  という「なぜ?」ですね。表面的な行動から、シンボリックな意味というか、子供が学校に行かないという行動を通して、一体何を

  訴えているのか?という観点からの「なぜ?」でしょうね。

 

最後に

4)「意味」を問う「なぜ?」

 「なぜ他の過程の子供ではなく、まさによりにもよって「うちの子」が不登校という行動を取ることになったのだろう?

  あるいは、「うちの子が登校しない」ということになったことは、私の人生にとってどういう意味や影響を与えているのだろう?あ  

  るいは私はそれを通じて何を学べたのだろう?、といううちの子が不登校になった「意味」を問う「なぜ?」

 

どれも切実な「なぜ?」であることに違いはないのですが、1)から4)へと進んでいくうちに、例えば「不登校」という現象が子供の問題だけであるだけでなく、家族に問いかけられたと「なぜ?」であることに変化していくような気がします。

そしてそれを子供と家族が一緒になって考えて行くことが大切ではないか、と最近思っています。

 

あなたは?