ざわめく❝影❞の予兆 <下>

全回のブログ「ざわめく❝影❞の予兆<上>」では、私が見た3本の映画「君たちはどう生きるか」「ゴジラ-1.0」「鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎」の物語の設定が、どういうわけかどれも戦時中であったということに、なんとなく私がざわざわとした気持ちになったことをまとめました。

 

「戦争」は恐ろしいものだけど、その悲惨さそのものよりも、相手を殺し、また自分の家族や自分自身も殺されるような破滅的なことにまで至ってしまうという、人間の理性では全くブレーキの利かない「底知れない負のエネルギー=❝影❞」の恐ろしさを感じたのです。

 

これは集団や国家レベルのことだけではなく、個人のプライベートな生活の中でも吹き出してしまうことがあります。例えばメディアで取り上げられるような「常軌を逸した凄惨な殺人事件」や「魂の殺人」と言われる「虐待」などを見ても、とても平静な意識状態では考えられないような行動を加害者はとっています。

 

「あれは一部の病的な人間がしたことだ」というのは簡単ですが、自分自身の中にそのような潜在的な負のエネルギーがないと言えるでしょうか?

 

例えば、その「破壊へと向かう負のエネルギー」は往々にして「正義」という名のもとに一般の人々に受け入れられています。また「匿名」という制度の陰に隠れて、陰湿で攻撃的なコメントが繰り返される現状はどう考えればよいでしょうか。

人間は一歩間違えばそのような破壊的で混沌を招きかねない、負のエネルギーを潜在的に持っているのではないかと私は思います。

その❝影❞をどうコントロールするかが、人間の文化や規範や道徳などの意識的な❝光❞のエネルギーなのでしょうが、残念ながら文化にしても規範にしても道徳にしても、すべて相対的なもので状況や立場が変われば全く変わってしまいます。先にあげた「君たちは・・・」「ゴジラ・・」「ゲゲゲ・・」の3本の映画はいずれも戦時中の規範や価値観や道徳が状況が変化すれば言動をコロッと変えてしまう上官たちの姿に絶望を深くしてしまうのです。そこに❝影❞が噴出してしまうのではないか?私はそう感じました。

 

では私たちは今、ざわめく影の予兆に対してどういう態度で生きることが求められているのか?

残念ながら私にはまだ答えはつかめていませんが、少なくとも噴出してくる自分自身の影のエネルギーの渦に、巻き込まれ、飲み込まれない、<冷静に状況を俯瞰し、自分自身を見失わない覚悟>を持っておくことが必要ではないかと思っています。

 

私には3本の映画の主人公は、最終的にいずれもそういう生き方を選択したように思えました。