今回取り上げる絵本は阿部海太さんの「みち」

タイトルと表紙の絵を観るだけで、この絵本が伝わってくるような印象を持ちます。こどものような男女がただ「みち」を歩く。「みち」って何だろう?どこからか始まってどこかへ通じるもの。ただ一直線とは限りません。曲がりくねったみち、まよいみち、戻りみち・・・・。それにしてもみちがあるということは、どこかへ行くことを求められている。「今、ここ」にいるだけでいいのなら「みち」はいりません。

ただしどこかへ行くことが求められているとしても、「いま、行くべきか」「どう行くべきか」はその人の判断に任されています。さらに「なぜ、行くべきか」となると、そもそも「このみち」を行くべきか、「別のみち」や「みちをはずれる」ことも考えなければいけません。

したがって人が「みちをいく」ということはたぶんに「意識的な営み」なのです。そしてそこに選択と判断と行動が伴います。

あるクライエントが書いた絵に「みち」がありました。そしてさらにそこには「道しるべ」も書かれていました。「道しるべ」は「この道が何処に続くのか」を示してくれるものです。ところが彼が言うには「この道しるべには『ここは、ここ』としか書かれていない」と言われました。

「ここは、ここ」確かにそうでしょう。でもそうならば彼の「みち」はどこへ続くのか?その時クライエントは身動きができずに「ただ今」をやり過ごすことに精一杯だったのです。

ではその「みち」は意味がないのか?そうではないと思います。今は、まだ歩き始める力はないけれど、でも確かに「みち」はある。どこかへ通じる「みち」はある。それだけでも未来はある、と私は思っています。

*「みち」阿部海太 リトル・モア 2016   

    写真はAmazon より