関係の中で傷つき、関係の中で癒される

最近いろいろなお話を聞く中で、「関係」の大切さについて気づかされることが多い。「人は一人では生きていけない」、というようなことは昔から何度も言われているけれど、しかし人は二人いれば生きていけるというものでもない。たくさんいればさらに生きづらさが増してくるものだ。例えば夫婦関係しかり、会社の人間関係しかり、友人関係しかり。「関係」に傷付けられ、「関係」に関係を断ち切られることなどしょっちゅうだ。もしかしたら「人は一人では生きていけない」のではなく、「一人で生きていける人になること」が最終的に人の生きる目的かもしれない。

 

一人になれるということは、自分自身の境界線をしっかりと定め、維持し続けることだ。他の人との自我境界がしっかりあればこそ、「自分は自分」と割り切ることができる。しかし考えてみれば、自分と相手の境界線がしっかり定められるということは、「自分と相手」という対極項が生まれてくることになる。つまり「自分」というものが浮かび上がると同時に、「相手」の存在も浮かび上がってくる。結局人は一人では生きられないことになる。

 

何ともパラドックスだけれど、結局のところ人は「関係」からは逃れられない、ということなのだろう。多くの人が夫婦関係や会社の人間関係などで悩んでいるのは、その人の問題ではない。「関係」の問題なのだ。「関係」の問題であれば「関係の在り方」というテーマで解決していくしかない。

 

誰かに裏切られたり、気持ちを踏みにじられる辛い体験をして、人を信じられなくなっている人がいる。

その人に何かを伝えようとしても難しい。信じてもらえないからだ。やさしい言葉の裏には何かある、思いやりは自分を操ろうする手段だ、こちらが何かを伝えようとしてもその裏を見てしまう。

 

であれば、裏がなく、その人と関わる方法はないだろうか?

多分それは本質的になかなかむずかしい。なぜなら、残念ながらそれが善意であれ悪意であれ、「裏がない人間」なんていないからだ。光があれば必ず影は生じる。影に光を当てれば、また反対側に影が生じる。

その影に悪意がある場合、確かに傷つけられかねない。その体験が人を信じられなくさせるのだろう。

 

もっとも影と言うのはわるいことばかりではなく、影があるからこそその人に奥行きや豊かさが生まれてくる。

だから裏に悪意でなく、善意がある場合は決して気持ちを踏みにじられることはないだろう。

しかし裏に善意があるのか悪意が隠れているのか、それは表からなかなかうかがい知ることができない。

それが問題なのだが。

 

 

 

裏がない存在と言えばとすれば、植物や動物だろう。植物や動物は人間と同じ生物でありながら、「裏がない」。

様々な草花、あるいは金魚やハムスターや犬猫などの小動物には、意図的に人間を欺く「裏はない」。

だとすれば、関係の中で傷ついた人には植物を育てることや小動物とともに過ごす時間を少しでも持つことを勧めたい。

 

 

「関係の中での傷つき」は「関係の中で癒される」しかないのではないだろうか。

 

そして私の目標は、「観葉植物」になることだ。