「失ったこと」で「気が付くこと」、そして「忘れていくこと」と「物語ること」 -3-

さて、前回は「人は目の前の風景が変わらないと。出来事の経験さえ忘れてしまいがちである」と言うようなことを書きましたが、「忘れること」は必ずしも悪いことでもありません。むしろ「忘れられない」方が苦しみ続けることにつながることもあります。例えば交通事故や自然災害などの悲惨な体験を、何かのきっかけ(トリガー)によって「思い出されてしまう」ことをフラッシュバックと言います。このようなフラッシュバックは、その時の生々しい感情や感覚を伴い、一瞬にして過去の体験へと引き戻されてしまう非常に苦しいものです。

 

阪神淡路大震災や東日本大震災などで、被害に合った建物を「震災遺構」として残しておくことに対する賛否は理解できます。「この体験を忘れることなく引き継いで次の世代への教訓にして行こう」という思いと、「忘れてしまいたい体験をこの建物を見るたびに思い出さされてしまう苦しさ」の間で葛藤が産まれるわけです。両方の意見に納得がいくのですが、よく考えるとこの両方の意見は「忘れてはいけない」という思いと「忘れたい」という思い、さらに言うと「思い出していこう」と言う能動的な意見と「思い出されてしまう」という受け身の体験の対立でもあるのです。

 

この「忘れてしまいたいが、忘れてはいけない」と言う矛盾した思いは、その体験を自分の心の中に受け入れて、コントロールできているかどうか、に掛かってくる矛盾なのかもしれません。私たちは人生の中のさまざまな理不尽で受け入れがたい体験を積み重ねていますが、その時その体験に「自分の人生における、その出来事がもたらした自分なりの意味」を能動的に見出だした時に「自分の体験」としてコントロールができるのかもしれません。

 

ではどうすれば今体験しつつある出来事に自分なりの意味を見つけることができるでしょうか?

それは私の今の考えでは、例えば感染者数の推移や死亡者の推移、あるいは他の国との比較などの客観的データでは無理なのではないかと思います。たとえ感染者数が1日に一けたに減った、とか、大阪モデルやと東京ロードマップのような客観的な基準をクリアーしたからコントロールできている、もう安心、と言うものではなく、たとえ一人でも亡くなった人がいる限りその一人の方の家族や周囲の関わりのあった人達がそれぞれの胸の内で自分なりの納得できる物語を作り出すものだからです。

 

震災などでもご自分が被災され、あるいは身近な方が被災された経験を踏まえて、いわゆる「語り部」として活動を続けていらっしゃる方々がいらっしゃいます。勝手な推測で申し訳ないのですが、彼らはそういう体験を誰かに「物語る」ことで自分の存在意義やこの悲しい出来事を遠方の方や次の世代に伝えることに意味を見つけ出された方々ではないか、と私は考えています。

 

そういう意味で、この新型コロナ感染症の引き起こした出来事を単なる客観的なデータとしてではなく、自分の生き方にどういう影響を与えたか、自分の人生のおけるこの出来事のもたらした意味を、それぞれの主観的な世界観や価値観をもとに「物語っていくこと」が、逆説的にこの出来事をコントロールしていく方法なのではないかな、と考えています。

 

長くなりましたが、「物語られた」ストーリーの一つとして次にある一つのコミックを紹介しようと思っています。

もうすでに御存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、それは朱戸アオさんの作品「リウーを待ちながら」という作品です。

長くなるのでそれは次回に。

 

 

最後に気分を変えるために・・・