「失ったこと」で「気が付くこと」、そして「忘れていくこと」と「物語ること」 -1-

みなさん、このブログをお読みいただくのも久しぶりかもしれません。

みなさんご自身や身近な方に新型コロナの影響はなかったでしょうか。実際に罹患したり、身近な方を失ったり、様々な困難に見舞われた方もいらっしゃるかもしれません。心から心配しています。私自身は今のところ、何とかこれまでと同じような生活に戻りつつあります。

 

それにしても新型コロナはこれまでにない影響を私たちに与えてくれたようです。

今回はそのことについて少し考えてみたいと思います。

 

今回の新型コロナ感染症の第1波を経験し(もちろん今も経験しつつあります。過去形ではありませんね。)、特に外出自粛によって私はこれまでになかった気持ちが湧いてきました。それは月並みなことかもしれませんが失うことで気づく「当たり前の風景の貴重さ」とでも言う様な気付きです。これは皆さんも実感されたのではないでしょうか。

 

毎日交通機関で職場へ向かったり、生活に必要なものをスーパーやお店に買いに行くことさえ、自粛を要請されて初めて、「当たり前の風景が当たり前でなくなったことの動揺」を感じました。

これは突き詰めて言えば「生きていること自体」は「死に向き合うことでしか直面できない」ということでもあります。

 

志村けんさんや岡江久美子さんが亡くなったという現実に向き合って初めて、「人が生きてこの世にいたことへの感謝」を感じました。「私たちが生きている」というこの世に生まれ落ちてこの方、特別意識もしなかったこと自体、「失わなければ気づかない」という逆説的な現象なのですね。

 

しかし同時に、この「生と死」や「存在と消失」「意識と無意識」は大げさに言えば人類がこれまで繰り返してきた経験であり、ある意味当然のことなのに何で今更ながら「はた!」と気が付かされるのでしょうか。

 

それは私たち自身が様々な経験を「忘れてしまう」存在だからでしょうね。テレビで専門家が人類がこれまでたびたびペストやコレラ、最近ではSARS(サーズ)やMERS(マーズ)などの感染症に見舞われながら、なぜ今回の新型コロナにここまで振り回されなければいけないのだろうか?という問いかけをしていました。

 

確かに今回かなり適切な対応をした韓国や台湾では、以前にサーズなどの感染症で痛い思いをして、その記憶が新しいうちだったので、政府も国民も対応の心構えがあったのではないか、という解説を聞いたことがあります。確かにそうかもしれません。ですから世界中の国は今回の痛い体験を忘れることなく、今後また必ず襲いくる第2波や新しい感染症に備えて準備をしておくことが大切なのだと思います。

 

しかしそれでも人類は今回の新型コロナと比べても比較にならない被害を出したペストやコレラ、エボラ出血熱などの感染症の教訓が十分に行かせているとは言えないのが現実です。なぜ私たちはそういう経験を「忘れてしまう」のでしょうか。そしてそれに対して「どう対応すればよいのでしょうか」。

 

長くなるので、とりあえず今回はここまで。近いうちに続きを描きます。「忘れない」うちにね!