丸ごと愛される経験 <4>

さて、しばらく記事をアップしない間に、佐世保の事件は色々な情報が取りざたされるようになりました。驚くような内容も沢山ありましたが、その中で私は先に取り上げた「分断化・断片化」というキーワードに加えてもう一つ「解剖」と言う言葉をキーワードに取り上げてみたいと思います。

 

今回の事件の被害者は新聞等のメディアの情報によると腹部を切り開かれていたといいます。

 

もし遺体を処理する、犯罪を隠ぺいするという目的ならば、腹部を切り開く必要はありません。これは、やはり何らかの意味があるのでしょう。

 

象徴的にとらえるなら、「身体の外と内の境界線が失われている」と言う意味で、「現実的な判断」が失われている状態とも言え、病的なサインとも取れます。ロールシャッハの解剖反応のように。

 

しかしもう一つの見方としては、「表面に見えない部分を知りたい」とも取れます。つまり「内部を知りたい=表面に出ていない隠された本当のこと」を知りたい、と理解できるのではないでしょうか。

 

文字通り「腹を探って」「胸の中を知りたい」

 

加害者の父親に対する発言を見聞きしていると、どうも表面の発言と内面の本音とのかい離が見られるような気もします。彼女は現実世界においては自分自身も含め、表面的な世界だけで生きてきたのではないでしょうか。

 

一見優等生で、スポーツでも優秀。地元の名士で東大を目指す、と言う生き方は表面的には何ひとつ問題のない姿なのだけれど、果たして内面での本音の生き方をどの程度自覚していたのか。

 

金属バットの父親殴打事件や、給食への異物混入事件などは、表面的な生き方と本音の生き方の間にできた溝から衝動的な葛藤が噴出して、行動化した結果であると理解できるような気がしています。

 

健全な状態であれば、葛藤の衝動性は、寝ている間に見る「夢」や絵画や言葉の比喩レベルで「空想」といして象徴化されるわけです。そしてカタルシスや生きるエネルギーに変換されるわけですが、彼女の場合は「象徴化」が「現実行動」となってしまったのでしょう。

 

ここでも「部分ー全体」に加え、「表面ー内面」の軸における「丸ごと愛される経験」の不足を感じずにはいられません。

 

考えすぎだ、と言われるかもしれませんが、私の感想や理解を簡単にまとめさせてもらいました。如何でしょうか?