丸ごと愛される経験 <3>

今回の佐世保の女子高生だけでなく、他にも殺人をおかしてその死体を損壊した事件は沢山ある。その理由として多くの場合は、犯罪の隠匿や死体の処理として行われるのだろうが、数は少なくてもいわゆる「不条理」なケースも見受けられる。

 

「不条理」と言う言葉を使ったのは、犯罪心理者の作田明さんの著書「なぜ、バラバラ殺人事件は起きるのか?」の中で一つの類型として挙げられているからそれを引用した。

 

この「不条理」ということを通訳すれば一般的・常識的な因果関係で死体損壊を意味づけられない、と言う意味だろう。

 

私はこう言うような「理屈でストンと納得いかない」犯罪状況については、「象徴的」な意味があるのではないか、と以前から思っている。

 

例えばなぜ、身体を部分化・断片化しなければならなかったのか?

これについては加害者自身が「部分化・断片化」されてきた苦しみを背負い続けてきたからではないか、と思うのだ。

 

自分と言う人間を「丸ごと愛してもらった」経験が少なく、たとえば「能力」や「言動」や「学力」や「社会的地位」などだけで人間を判断されてしまう経験が成育歴で大半を占めていなかったか?

 

特に親が子どもに対して、テストの結果やスポーツの結果や礼儀作法や社会的立場で人間を見切るような姿勢で接してきたのではないか?

 

人間は部分の寄せ集めではない。

「テストの結果が良い」ということや「スポーツの結果が良い」ということやましてや「親の地位が高い」とか「表面的な言動が礼儀正しい」ということで、その人そのものの存在を判断してはならないだろう。

 

私は特別支援教育に長く関わってきたので、先にあげた能力や環境や表面に出てくる言動だけで判断されれば、非常に立場の弱い、比較されれば「社会的弱者」などと言われかねない子どもたちの姿が目に浮かんでくる。

 

確かに、知的には低いだろう、身体も動かないだろう、経済的にも苦しいかもしれない、言動も社会的には受け入れにくい特性を持っているかもしれない。しかしだからと言って、その部分の寄せ集めが彼ら自身ではないのだ。

 

今回の事件を起こしたこの高校生の情報を耳にする度に、何とも無機質なイメージが湧いてきてしまう。

自分自身に対する無機質なイメージを、他人に対しても投げかけてしまったのではないか。

 

私は個人的にはもちろん女子高生と知り合いではないし、個人的な情報はメディアの範囲を超えるものはないので、一方的な思い込みかもしれないが、社会的には能力の高い、恵まれた家庭に生まれた人でありながら、丸ごとの自分を愛されてこなかったような、妙な哀しさとむなしさが彼女のイメージとして浮かんできくるのです。

 

<続く>