丸ごと愛される経験<2>

昨日に続いて、いろいろ考えてみた。

 

「部分化・断片化」というキーワードで考えてみたが、この場合気が付くのは「身体」についてである。この場合、加害者は心と体を分離させて、ただ「身体の部分化・断片化」を図っている。

 

だからこういう事件の場合、すでに被害者だけでなく、加害者も「心と身体」は分離していしまっているのではないか。

もっと言えば、被害者と言う一人の人間の「心」を問題にせず「身体」だけを対象にしている。「心」はどこかに霧消してしまっている。加害者も同様だろう。

 

乳児が、差し出された乳房と自分を抱く両の手、自分にむけられた笑顔を一つの「母親」と言う人間として認知する時、決して「乳房」「両手」「笑顔」の「部分」を寄せ集めた「全体」として認知するわけじゃないだろう。

それらを総合して、しかもそれが一人の生き生きとした<魂>に総合・統合された存在として「そこに生きていて、自分を愛してくれる母親」を認知するのだと思う。

 

そしてそれと同時に、「自分」が単なる感覚や空腹の欲求だけの部分的な存在ではなく、一人の人間として<魂>によってまとまりづけられた存在だと感じられてくる。それがいわゆる自己同一性(自我同一性ではありません。自分と言う存在が確かにここにいる、と言う感覚をさしています)だろう。

 

<魂>などという単語を使うと、なんだか宗教じみた考えを持つカウンセラーかと思われるかもしれない。

しかし私は人間は心と身体を統合する働き(それをつかさどるのが<魂>だと私は思っているのですが・・)によって存在しているのであって、単なる部分の寄せ集めではないと思っている。

 

そういう私の考え方からすると、こういう身体だけを対象にしかも「部分化・断片化」する行いと言うのは、魂のレベルが抜け落ちて、心と身体が分離している状態だと思える。

 

心がどこかへ飛んで行ってしまっているのだから、知的な働きは機能していても罪悪感や被害者への共感や謝罪の言葉なども出てこないのは当然だろう。

 

では「なぜこんな状態に」なってしまったのか?

 

<続く>