丸ごと愛される経験 <1>

再び佐世保で悲惨な事件起きた。

以前にも、今回と類似したような事件が小学校で起きている。

 

詳しいことは新聞の断片的な情報でしか伝わってこないのでよくわからないが、どちらの事件にも共通するのは「部分化・断片化」ということだ。

 

目の前に倒れた友人を自らの力で「部分化・断片化」する。

 

なぜだろう?

 

今回の事件から少し離れるが、人間を「部分対象」から「全体対象」へと認識していく発達の様子を指摘したのは、メラニー・クラインという分析家だった。

 

乳児は空腹と言う不快な感覚を感じた時、泣いてサインを発する。すると近くいた母親がほどなく乳房を差出し、乳児は乳首を口に含んで満腹になるまで母乳を吸う。この時乳児は母親と言う一人の人間を全体的に認識しているわけではなく、差し出された乳房だけを一つの部分対象として認識しているのではないか。

 

しかし次第に長ずるにつれ、差し出された乳房と自分をゆすってくれる両の手や視野に広がる笑顔が一つのまとまりとして全体的に認識できるようになる。

 

私の拙い理解から説明すると、部分対象から全体対象へと移る経過はこのようなものになるのではないかと思っている(もし専門の方で補足や訂正があればよろしくお願いします)。

 

なぜ?今回や以前のケース、あるいは神戸での少年Aの事件も、対象を「部分化・断片化」という認識の発達に逆行する方向へと行動するのだろう?

単に犯罪を隠すために行っている他の大人の犯罪とは異なる背景があるように思うのだ。

 

<続く>