対人過敏性を考える ④ 「社会への復讐」

また悲惨な事件が起きました。

千葉県柏の無差別殺傷事件。

 

容疑者が逮捕されましたが、彼のネットへの書き込みをみると「やはり・・・」という感じが否めません。と、いうのは彼がラインでチャットしていた書き込みを見ると書き込みに対する仲間の応答がないということにかなりのいら立ちを書き込んでいるからです。

 

もちろんこのことが今回の犯罪に結びつくという証拠はどこにもないのですが、それにしても容疑者がネット上でもリアルな世界でもかなり孤立していた様子はうかがえて来ます。

 

以前もちょっと書きましたが、ラインにおける「既読無視はご法度」という感覚は「自分を無視された」という感覚なのでしょう。確かにこれはつらいでしょう。いじめなどでも一番つらいのは「シカト」されることだと言いますし、虐待などでもネグレクトは一番子供の存在感・魂を揺さぶられます。

 

ただこれが相手の故意・悪意による行為なのか、それともそれなりの背景があっての上での状況なのか、はわかりにくいところがあります。

 

この容疑者は、スカイプの途中で奇声をあげたり、自己顕示欲からかかなりの挑発的な内容の発言があり、それに対して仲間がひいてしまった、ということのようでした。

だのに、それに対して「仲間が自分を認めてくれない」という被害感を持ったのだとしたら、これは困ります。

 

そしてその周囲の反応を基準に自分を確認する「対人過敏的」なあり方に、自己愛を痛く傷つけられてしまった、ということは想像できます。

 

周囲の反応を「自分の姿を見つめ直す手掛かり」として大切にするのではなく、即「自分を認めてくれない周囲への憎悪」に結び付け、「社会への復讐」と展開していく・・・・。

 

ただ、ここで本当に問題とするべきは、「そういう彼らに私たちは批判以外のどういう対応ができるだろうか?」と私たち自身を問い直す姿勢かもしれません。でないと、彼と同じように私たちの感覚に合わない彼らを、私たちの価値観に自然になじめない彼らを、異質な存在として「憎悪の対象」だけにしてしまいかねません。

 

もちろん、起こした事件については当然責任を取らせなければいけないし、犠牲になった方々の無念さは想像するに余りあるものがあります。そういう意味で「許されてはいけない」事件であったことは言うまでもありません。

 

ただ、今後もまた同じような背景から再び事件が起きてしまわないためにも、容疑者に当然責任を取らせると同時に、「今後同じような事件が起きないためには、どうすればよいのか」を考える必要はあるだろうと思うのです。

 

しかし、ではその答えは??

・・・考え続けることしかないのでしょうね。