「聲の形」
以前マガジンで読み切り掲載された時、ネットで話題になったのであちこち本屋を探したのですが、すでに遅く読みそびれていたのですが、いよいよコミックとして出されました。しかし実はあらためて今、またマガジンで、今度は連載されているとか・・・・知りませんでした(-_-;)
聴覚障害を持つ少女、西宮硝子さんとその周囲の仲間とのさまざまな関係をいじめと絡めて描いています。私は以前聴覚障害の子どもたちと関わっていたので、他人ごとではない実感を持って読ませていただきました。
聴覚障害に限らず、やはり自分とは違う人々を排斥する傾向は人間にはあります。
それを差別と呼んでもいいのでしょうが、私は基本的には差別する人々は「怖がっているから」だと思っています。
この本を読みながら、そんなことを思い出しました。
それは私の体験からなのですが、以前肢体不自由児と関わっていた時、さまざまな障害を知りました。身体だけではなく知的にも、また情緒面でも特異な様子を見せる子どもたちがいました。最初の内は、なぜか少し怖かったのですが次第に慣れてくると、別になんてことはないのです。姿かたちや行動特性はちがっていても、なんということはない、同じ人間だ、と思えるようになりました。
しかしある時そこに身体的に先天的な奇形を持った子供が入ってきたのです。その子供は指が3本しかなかったのでした。肢体不自由児に十分慣れていたはずの私でも最初あった時は「エッ?」と思ったものです。
その時の最初の気持ちを言葉にすれば「怖い!」でした。何が怖いのか?それはその子供が怖いのではなく、自分が当たり前だと思っている前提(つまり指は5本あるものだ、という思い)が突然崩れてしまう事態が怖いのです。
別に指が3本しかないから差別するということはありませんが、それでも手をつなぐことに初めのうちは勇気が必要だったことは覚えています。
しかしそれでも慣れてきます。次第になんということはなくなってきます。
そういうものです。聴覚障害、視覚障害、知的障害、身体障害、精神障害、いろいろあっても、別にどうってことないのです。
要するに相手のことを知らないから、怖いのです。ずっと付き合っていれば慣れる、というか相手のことがわかってきます。そうすればなんということはない、自分と同じ人間じゃないか、と思えてくるのです。
自分と違うものを受け入れる勇気のなさ、それが差別の根本にあるのではないか、私はそう思っています。
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