いじめから考えたこと ③ ~良心が痛むこと無く~

さて、いじめから考えたこと3回目は、邪悪な加害者は「良心が痛むことなく」残虐な行動に移れる、ということです。

 

この「良心」とは何か?という問題に深入りするとこんな短文ではまとめきれないので、とりあえず「心が痛むことなく」程度に考えておきます。

 

しかし実はこの「良心が痛まない」というのが邪悪性の一番根源ではないか、と思っています。メディアを揺るがす数々の邪悪な事件をざっと思い出しても、「よくもそんなひどいことが平気で出来たもんだ」とため息をつかずにおれません。

 

ただ、この感覚のマヒに似た状態は、生まれつきの異常者だからだ、と単純に言い切れないところが恐ろしいのですよね。なぜなら、戦争中の人々の残虐な行為は平時であればとてもそんなことができそうもない人々によってなされている事実もあるからです。

 

私たちは時と場合によっては、邪悪な人間になることがある、ということを思わされる瞬間です。

 

M・スコット・ベック「平気でうそをつく人たち」によると

<邪悪な人間は「自責の念」ーつまり、自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識ーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人も負わせる。自分自身が苦しむ代わりに、他人を苦しめるのである>とあります。

 

ある意味ゆがんだ自己防衛の姿なのかもしれません。

ある特別な邪悪に生まれついた気質の持ち主だけの問題ではない、というところが一番恐ろしい。

他人ごとではなく、実はあなたや私の問題なのではないでしょうか。