「いじめ」から考えたこと① ~いじめの邪悪性について~

最近機会があって「いじめ」について考えることができました。

まだ十分に考えがまとまったわけではないのですが、このブログを通じて少しづつ考えをまとめて行きたいと思っています。

 

「いじめ」という言葉は大変便利なことばで、この言葉を使うことでその場にいる人たちの間にすぐに共通なイメージが思い浮かんできますね。

 

しかし考えてみれば、これは「思いやり」とか「配慮」などと同じで、出来事の総称でしかありません。ですから、すぐに共通のイメージがわいてくるのだけれど、具体的な事象・事件の一つ一つを見ていくと、当然それぞれが固有の背景や事情があるわけです。ちょうど「不登校」という言葉と同じで、「登校しない(できない)」という一点では共通するものの、現実は皆それぞれ異なるわけです

 

ですから共通するシンボルのような言葉ではないかと思うのです。

 

ではもうちょっと考えて、「いじめ」と総称で呼ばれる事象の特徴って一体何なんでしょう?

 

そう考えている時、私の頭に「邪悪性」という言葉が浮かびました。

 

この「邪悪性」と呼ばれるものは、単なる攻撃性とか破壊性とは違います。たとえば怒りにキレて暴力に及ぶ、というような行動は確かに破壊的で悪いことですが、「邪悪性」という点では少し違うような気がします。

 

つまり「いじめ」という文脈で報告される暴力行為は、たんなるケンカの暴力とはちがいなんとなく邪悪な匂いがする、と思うのは私だけでしょうか?

 

もちろん「邪悪な行為」は「いじめ」に限りません。いろいろな場面で感じられますが、いずれにしても「邪悪性」の漂う行動には次の4つの内容がみられるような気がします。

 

1)加害者は被害者の心情を予想できた上で

2)良心が痛むことなく

3)自分の満足のためだけに

4)被害者を犠牲にすること

 

「邪悪な行為」と呼ばれる事柄はこの4つの特徴を備えているんじゃないか?というのが、今の私の考えです。

 

これから数日にわたって一度自分の考えをまとめるつもりで記事をアップしてみたいと思っています。もしこの駄文を読まれている方がいらっしゃって、何かご意見があればどうぞご教授ください。よろしくお願いします。