自尊と自慈について

最近、良く聴く言葉に「自尊感情」というのがあります。「自尊心」という言葉とほぼ同意味かと思うのですが、その「自尊」ということについて、ちょっと考えていることがあります。「自尊」という言葉のイメージは、私の中ではこんな感じです。

 

 “ある雨の日、車を運転していた私は・・・・・

ある雨の日車を運転していた私は、車のタイヤをぬかるみの中に入れてしまいます。そのぬかるみは思いのほか深く、タイヤはいくらアクセルを吹かしても空回りするだけで一向に動いてくれません。

そんな時、私は近くにあった木の板に気がつきました。そしてその板をタイヤに噛ませて再びアクセルを勢い良く踏むとタイヤは一気にぬかるみを脱出することができました”

 

つまり、ぬかるみにはまってどうしようもない時に、そのから脱出する力を与えてくれるものが「自分はできるんだ」という自信であり、実際に本来持っているエネルギーを危機から脱出するために使う手がかりであると。

 

しかし、こういう解決法もあるのではないでしょうか。

 

“私は空回りするタイヤを眺めているうちに、無理して乗り越えなくても良いのではないか、と思いだした。そして手に持ったスコップで周りの土を取り除き、地面をタイヤの高さにまで下げた上で自然にそこから脱出した”

 

こういう方法もありますよね。乗り越えるべき状況と考えずに、今いる状況そのものを受け入れてしまう。ハードルを下げる、ということもできるかもしれません。

 

こういう考え方で無理なく困った状況を問題でなくしてしまう考え方を「自慈」というそうです。

『親切は驚くほど身体にいい!―“幸せ物質”オキシトシンで人生が変わる』(デビット・ハミルトン著 有田秀穂監訳 飛鳥新書)の中に書かれていました。

 

それによると「自慈」の定義は「自分が欠点もあり失敗もする生身の人間であることを認め、自らの苦しみに目を向けて共感し、慈しみといたわりの気持ちを抱くこと」というらしいですが、

 

「自尊心が、自分を肯定し、人から認められていると感じる気持ちのことであるのに対し自慈は自分自身へのいたわりです」とも。

 

自尊と自慈、似て非なるこの二つの言葉、あなたはどう思いますか?