こころを描いた映画・書籍の紹介コラム       ~青年は旅に出る~

人生や心模様を描いた映画や書籍は数多くあります。しかしそれをすべて鑑賞することは困難。しかしさまざまな分野の障害やこころ模様について知ることや思いをはせることは、そこに描かれた登場人物の苦しみや葛藤に寄り添いながら、周り回って自分自身の問題への視点を広げ、深めることにつながります。以下は岸井がこれまで観賞したり読んできた映画や書籍・マンガなどの簡単な紹介です。もし興味を持たれたり、作品に触れる機会があった時に参考になれば幸いです。

 *なお取り上げた作品は、あくまでもこれまでに岸井が観賞した作品です。現在観賞可能な作品とは限らず、過去のDVDなども紹介しています。また言うまでもなく岸井の興味の観点からの紹介ですので、作品の良しあしとは全く関係がありません。ご了解ください。


青年は旅に出る。何を目指して?

文字通り「荒野」へ一人旅に出た青年の行く末は?

『イントゥ・ザ・ワイルド』


「青年は荒野を目指す」というのは五木寛之さんの名作のタイトルですが、心の中で噴き出すように湧き起ってくる自立へのエネルギーに突き動かされる思春期や青年期の若者の姿が目に浮かんできます。この作品は実話をもとに名優のシーョン・ペンが監督をした作品で、まさしく「荒野」を目指して一人旅に出た青年の姿を見事に描いています。

 

「自立へのエネルギー」と言いましたが、少年少女の時期は親や大人の価値観を学び、社会に適応することが目の前のテーマです。しかし思春期を迎え青年期に入ると、親や大人の価値観や社会に息苦しさを感じ始めます。この映画の主人公クリスも大学までは何とか親の期待に沿った生き方をしてきましたが、ふつふつと湧き起る「自分らしい生き方」への衝動は抑えようもなく、一人で大人の社会や文化から離れて、文字通りの「荒野」へと一人で放浪の旅に出たのでした。

 

親に敷かれたレールから離れ、まだ未開の荒野の中に一人分け入って、自分の足で自分の道を切り開いていくクリス。しかしそれはあまりにも無計画で現実的な行動ではありませんでした。目指すところは「アラスカ」。未開の地へ分け入って、陳腐で無意味な都会での生活から縁を切る。そして一人で自分らしい人生を送ることが彼にとっての究極の生きる目的だったのです。

 

クリスの突き動かされるような姿に私も自分の若いころの事を思い出しながら見ていたのですが、彼のようにあまりにも繊細で傷つきやすく純粋に物事を考える若者は時として現実の世界に戻ってこれないことがあります。ギリシア神話に「イカロスの翼」という話があります。イカロスは蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るのですが、自由自在に空を飛べることで自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから、「太陽に接近し過ぎてはいけない」という父の忠告を無視してしまいます。その結果イカロスは太陽に接近し過ぎたことで翼が溶けてなくなり、墜落して死を迎えてしまいました。

 

夢や希望に燃えて自分自身を信じるあまり、天まで舞い上がるのは仕方がないですが、その結果大地という人間の生きる現実の世界へ無事戻ってこれなければ、身を滅ぼしてしまいます。「自分は能力がある」「何でもやればできるはずだ」という自信は大切ですが、人間は天の上にすむ神様ではありません。引力に縛られて地に足をつけざるを得ない存在です。つまり高い理想や夢を現実に結び付けることが大切なのです。

 

主人公クリスもやっとそのことに気づき「幸せを現実にするのは、それを誰かと分かち合うときだ」ということを悟って家族のもとへと戻ろうとしたときには、もう遅かったのでした。これがフィクションではなく実話に基づいた作品であるだけに、大変胸に訴えかける物語でした。

青年は「父親殺し」をして、一人前の大人になる

『キャラバン』


大分以前に一度VHSで(古い!)見た作品ですが、印象が強かったので再びVHSで(!!)見直しました。作品の舞台はヒマラヤの高地民族が冬が訪れる前に生活物資を手に入れようと塩を牛に積んで町まで長い旅を続ける、という「キャラバン=隊を組んで行く商人の一団」なのです。それまで代々長老一族がリーダーとして隊を率いてきましたが、現長老ティレンも年齢を重ね、そろそろ長男に次を譲ろうとしていた矢先に、別のキャラバンを組んで旅していた長男が事故で死んでしまいます。その時に長男と一緒に旅していた若きリーダーがカルマと言う青年でした。

 

 

 

長老を始め村の年寄り連中は、色々なイベントや村の運営を昔ながらに神様に祈りをささげ、占いに出た宣託に従うことに全く疑いを持ちません。しかしどこの世界でもそうでしょうが、やはりこのの高地民族の村でも若き青年たちは占いや神様よりも合理的で科学的な判断で動こうとします。よく見かける光景ですねぇ。ヒマラヤの高地でなくても、日本の関西で大手老舗の○○家具の父娘の骨肉の争いや、お隣韓国でもロッテの後継者問題など、年寄りと若者の世代交代にまつわる確執は珍しくありません。

 

さぁこのヒマラヤ高地に住む少数民族の後継者争いは一体どういう展開を見せるのか、とっても生々しくて興味深いですよ。人間、どこに住んでいても、どんな生活や言葉をしゃべっていても、大体同じような人生テーマを生きるものなのですよね。興味津々。

 

ネタバレしても困りますが、最後の最後に二人が交わす言葉がとても素敵なので引用しちゃいましょう。

若きリーダー、カルマ「ティレン・・・・あんたが実の父親だったらよかった・・・」

長老ティレン「息子にしては・・・わしに似すぎとる・・・。カルマ、わしがいつもいつも神託に従ってきたと思うのか?・・・・反抗することから、真の長老が生まれるのじゃ・・・ よいか、カルマ、これからはお前がこのキャラバンを率いるのじゃ!」

 

おぉ(文字にすればちょっとクサいセリフですが)渋いやり取り!男と男のぶつかり合い!まるでゴッドファーザーを思い出します。

興味を持たれた方は、レンタルショップで探してみてください。運が良ければあるかも!

団地内ひきこもりの「マイルド・ヤンキー」が自立するまで

『みなさん、さようなら』


小学校卒業以来、自分の住む団地から一歩も出ずに生活をする男性の20年の歩みを追うドラマです。映画の設定自体は、昔懐かしい昭和時代で、大阪万博や空手バカ一代の大山倍達さんが登場したり、同時代を生きた私としては大変懐かしい限り。

 

だいたい「団地」なんて言葉は、あの時代に生まれて最近では「ニュータウン」(これも古いか?)になってほとんど聞きませんね。「工業団地」なんていい方は聞きますが。その団地で20年を過ごす、というか本当に過ごせるのか?とも思いますが、昔は団地の中に色々な店やスーパーもどきの店が一緒にあったものです。

 

1981年、小学校を卒業した主人公の悟は、その団地の生活圏内で生きていくことを高らかに宣言します。今で言うところの「マイルドヤンキー」のプライベート版と言うところでしょうか。彼は中学にも行かずに独自の信念に従った生活を確立し、自分で立てた生活スケジュールに従って勉強も体力作りも着々とこなしていくのでした。

 

ネタバレになりますが、母親のヒーさんは、そんなマイペースな息子の姿を優しく見守っていたのですが、実はそれには理由があったのです。ここから先はメタバレになってしまうので、はっきりとは言えませんが、実は悟は小学校の時に、突然学校に侵入してきた不審者によってこころに大きな傷を負っていたのでした。彼はその時のトラウマから、団地の外へと通じる階段を降りようとしても、身体が動かなくなりパニックになってしまうのでした。

 

何度もチャレンジしてもどうしても動けなくなってしまう悟。母はその悟の苦しみを十分に理解したうえで、受け入れて見守っていたのです。

 

その後もさまざまな身近なエピソードの中に、現代を象徴するような問題点が現れてきます。ある意味では、この映画は悟一人の問題ではなく、日本と言う社会の病理そのものを映し出している映画であるとも言えますね。たださまざまな問題点を評論家のように声高に上から目線ではなく、あくまでも一人の青年の生き様とそれを取り巻く日常のエピソードで語ってくれています。

 

色々と考えさせられた映画でしたが、最後に悟は最愛の母親の死をきっかけとして立ち直り・・・・・・。前半の多少コメディ調の印象とは裏腹に、とても深い一人の若者の成長を描いた印象の残る映画だったと思います。でもこれは他人ごとではありませんよ、そう、あなたも私も、みんな、ガンバレ!!



リアルな日常とファンタジーの世界のはざまを生きる

当時19歳の青年監督が、現実に押しつぶされそうな同時代の青群像を描いた作品

『明日、君がいない』


2006年のオーストラリアの映画ですが、大変重く、抱えきれない現実に押しつぶされそうになりながらもがいている若者たちの様子をドキュメンタリー風に本人たちのインタビューをはさみながら映画です。

 

ある日ある高校で、2時37分にある女生徒が校内で命を絶ちました。その時間に至るまでの周囲の高校生の1日を追っています。

 

周囲の高校生とは優等生のマーカスと両親の自分に対する扱いに不満を抱くメロディ(二人の間にはそれだけでく他人に言えない秘密がありました)。スポーツマンで人イケメンのルーク、さらにルークと関係を持ちゲイに対する差別に悩みマリファナに手を出すショーン。そして障害があるのでしょうか、片足を引きづりながら歩き、いじめを受けるスティーブン。

 

最後にもう一人、何が問題なのかはハッキリと描かれていないが大きな問題を抱えているらしいケリー。

それぞれの悩みをリアルに描きだします。

 

この映画の監督ムラーリ・K・タルリは、この映画を作り始めた時はなんと若干19歳だったと言うことです。そして現実でも監督は友人を自殺で失います。そのことにショックを受け半年後、自らも人生に絶望して自殺の道を選ぶんだそうですが、幸いにも一命を取り留め、その体験をもとに2年の歳月をかけて完成させたといいます。

 

ですからリアルに当時の若者の目線で描かれているし、非常に繊細な若者の揺れる心を描いています。

 

一つ一つを取り上げれば、いじめや同性愛差別や性的虐待等々とレッテルを貼られてしまいますが、現実には厳しい現実が錯綜しながら、その隙間を縫うように生き延びている若者たちがいることを忘れてはならないでしょうね。

 

興味がある方はゼヒ。

ヒリヒリと葛藤に苦しむ青年をデカプリオが演じた秀作

『マイルーム』


メルリ・ストリープに、若き日のレオナルド・デカプリオそして円熟のダイアン・キートンが出演する「マイ・ルーム」は素晴らしく人生の光と影を考えさせられる映画です。

 

ディカプリオ演じるハンクは母親のリーと何かにつけて素直になれずいがみ合う親子。リーは屈折したハンクの態度に、手を焼き扱いかねて半ば心理的なネグレクト状態。お互いに相手に対して愛を求めて、飢えた野良犬のようなギスギスした関係なのです。

 

そこへリーの姉であるベッシイから連絡が入り、リーとハンク、そして弟のチャーリーはベッシーの待つ実家へ向かうのですが、そこには寝たきりの父マーヴィンと、陽気だが体の不自由な叔母ルースが。ベッシーは父と叔母を一人で介護していたのです。しかし実はベッシーの体はその時すでに白血病に蝕まれていたのでした。

 

説明すると長くなってしまいますが、この映画を観ていて私が感じたことは、「人生とは対立する二つのベクトルから成っている」と言うことです。つまり「姉と妹」「親と子」「愛を求める人と愛を与える人」それ以外にもこの映画であらわされている対立項は「男と女」「老若」「長女(男)次女(男)」などなど。

 

私たちの周りにもこういう対立項と言うのは常に存在します。そしてそのどちらの項に立つ者も、自分だけがすべてだと思っている。しかしどちらか一方に偏ってしまうあり方は、やはりどこかに無理がある、どこかで一面的な極端さを産み出してしまう。ユングは人間のこころに一面的な偏りが生じた時、人間の心は補償的な働きを産み出す力を備えており、心の全体性を取り戻すことができるのだ、と指摘しました。

 

私はこの映画を見ていて、心からその意味を実感できたような気がしています。そしてそれは人間のこころと言うものに対する希望につながるのだろうと思うのです。

天才グザビェ・ドランが怪しくも魅力的な青年を見事に演じた快作

『エレファント・ソング』


若き天才グザビェ・ドランが脚本に惚れ込んで自ら主演を希望した映画です。

久々に緊張感をもって見ました。

 

ドランが「これは僕だ」と言って出演を希望した主人公はマイケル。

母が有名な歌手で小さいころから、あまり愛情を受けられずにさみしい思いを積み重ねてきました。その時の愛着不足が、彼の人格をかなり個性的な、というか、人格障害レベルにまでしてしまったようです。

精神病院に長期の入院をしています。

 

マイケルはその内面のさみしさ・渇愛の裏返しで、独特の魅力的な笑顔と、さわやかながらも嘘にまみれた弁舌で周囲の人を振り回してしまいます。

 

と言っても、何しろ相手は精神病院のベテラン看護婦長や経験豊富な精神科医の院長。人の心の裏を読み取る専門家のはずである彼らを見事な心理的駆け引きですべて振り回し、翻弄するマイケル。

 

それは実に魅力的でもありました。

なにしろ振りまわされた人たちが最後にはみなマイケルに魅かれてしまうのですから。

 

ところが、実は彼の真の目的は全く別のところにあったのです。詳しくは言えませんが、さまざまな伏線が張られていたとはいえ、クライマックスでは驚かされました。

 

・・・マイケルを見ていると・・・私がお会いしている人たちの顔が浮かんできてしまいした・・・・小さいころから、特に親からの愛情を十分に受けられず、愛着障害に悶え苦しみながらも何事もなかったように、みごとに人を操作する、魅力にあふれた彼らの仮面の笑顔を・・・・

 

タイトルの「エレファント」もとても象徴的な「象」の姿として使われていました。

興味を持たれた方は是非どうぞ!